資料案内(コレクション)

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冊子体コレクション
  • 漢方古書資料
  • 図書館1階で、薬にまつわる道具や貴重書などを展示しています。
    資料はデジタルアーカイブにてオンライン提供もしています。 パンフレット
  • 本学は、創立者・初代理事長水田三喜男先生が提唱した「学問による人間形成」を建学の精神として、昭和40年に創設された大学です。 昭和48年に開設された薬学部は、薬剤師養成課程として6年制の薬学科、化粧品や食品、医薬品の研究開発のスペシャリストを育成する4年制の薬科学科、管理栄養士養成課程としての医療栄養学科があります。 昨今の学習・研究環境においては、電子媒体資料など最新情報を学内どこからでも24時間アクセスできる利用環境を整えております。 しかし、現代の医療、薬学、栄養学を学習する上で、歴史的考察の資料として漢方や医学書に触れ、先人の叡智を学ぶこともまた人間形成の上で重要なことです。 図書館では、建学の精神に基づく学士力・人間力の涵養に資することを目的として、財団法人 田嶋記念大学図書館振興財団の助成金により購入したのを契機に、漢方古書、薬籠などを蒐集・保存し、新旧の情報提供に努めています。
  • 統計研究会文庫
  • 財団法人統計研究会より受贈。 国勢にかかわる明治中期以降、現在に至る貴重な統計資料8,103点。
    3階 統計研究会文庫コーナー / 資料一覧
  • 財団法人 統計研究会
    統計研究会の設立前史によると、「戦後のわが国の復興には統計制度の整備が必要という時代的要請に応えるために内閣審議室に設けられた統計研究会(当初は統計懇談会)は、社会経済統計の体系づくりに参画し、政策の推進に寄与した。 経済安定本部設置後に同本部に引き継がれた後、より自由な立場で一層活発な活動を展開するために、同本部その他の官民機関の後援のもとに民営化されることになった。」
    統計研究会は、1947年(昭和22年)戦後第1号の財団法人として設立され、以来今日まで有力な経済学者・統計学者、官庁・政策機関や民間のエコノミストなどの幅広い参加を得て、理論的・実証的な調査・研究活動を行っている機関です。
    2008年8月、財団法人統計研究会より国勢にかかわる明治中期以降現在に至る貴重な統計資料8,103点を受贈しました。 資料の内容は、戦前・戦後の主要な統計書のほかに、国内の基本的な統計書が網羅されています。 特に、日本赤十字社から統計研究会に譲り受けたといわれる、明治期・大正期の貴重な統計資料、「日本帝国人口動態統計(原表之部)明治33年」、「日本帝国死因統計 明治39年~昭和13年」、「出産・出生・死産及乳幼児死亡統計 昭和8年」などが含まれています。
  • ゲルシェンクロン(Gerschenkron)文庫
  • ソビエト経済史と経済学を専門とし、著作物も含めた約5,300冊。
    積層書庫1層 / 資料一覧
  • GERSCHENKRON, Alexander (アレクサンデル・ゲルシェンクロン) 1904-1978
    ゲルシェンクロンは、オーストリア経済学派の一人で、1938年ヒトラーのオーストリア侵入によりアメリカに渡りました。 1904年ロシアのオデッサに生まれ、彼の家族は、ロシア革命後ウィーンに移り住みました。 1928年ウィーン大学から博士号を取得し、Austrian Institute of Business Cycle Researchに職を得ました。 彼はそこで、Frederich Hayekに認められました。 1938年ドイツ侵入のその日アメリカ合衆国に渡り、彼はカリフォルニア大学バークレー校で研究助手、続いて講師の職を得、1944年ワシントン連邦準備制度の研究スタッフに加わり、最初の著作"Bread and Democracy in Germany(Fertig, 1943; 2nd ed., 1966)"を出版しました。 1948年、ハーヴァード大学の教授となり、ロシア研究センターで、長年経済研究に没頭しました。 1974年に退官し、1978年に亡くなりました。
    ゲルシェンクロンはソビエト経済史と経済学の専門で、主要な論文"The Soviet Indices of Industrial Production"(Review of Economics and Statistics, November 1947)と、彼の著作"A Dollaer Index of Soviet Machinery Output, 1927-28 to 1937"(Rand Corporation, 1951)で「Gerschenkron effect」と呼ばれる理論を発見しました。 指数の基本年の選択が、それらの結果に影響を及ぼすということです。
    彼の優れた業績のひとつは、どのようにして19世紀のヨーロッパの後背諸国が、逆に先進工業諸国より非常に早いスピードで発展することができたのかについての考察でありました。
    ゲルシェンクロンのロシアとロシア人についての広汎な知識は、1950年代から60年代のハーバード周辺では伝説的でした。 彼の"New York Review of Books"に載せた、パステルナークの小説「ドクトル・ジバコ」についての論評と、プーシキンの「エヴゲーニー・オネーギン」のナボコフによる英訳に対する痛烈な批評(Modern Philology, 1966) は、ナボコフとの間に激しい論争を巻き起こしたが、それは本当に優れた文学批評の傑作でありました。 1969年、彼はアメリカ経済学協会の名誉会員となりました。
    - 参考文献 「Great economist since Keynes / Mark Blaug」、「Who's who in economics : a bibliographical dictionary of major economists 1700-1981 / Mark Blaug and Paul Sturges」-
    本学ゲルシェンクロン文庫は1978年に購入され、彼自身の著作物も含めた貴重な蔵書が収められています。
  • ラウム(Laum)文庫
  • ドイツの経済学者ラウムのコレクション。 専門の貨幣経済関連の約1,800冊。
    積層書庫1層 / 資料一覧
  • LAUM, Bernhard (ベルンハルト・ラウム) 1884-1974
    ドイツの経済学者ラウムのコレクションで、1978年ゲルシェンクロンのコレクションと一緒に購入されました。 ラウムの専門は貨幣経済です。
    • Das Eisengeld der spartaner. (Verlag der Staatlichen Akademie, 1925)
    • Heiliges Geld : Eine historische Untersuchung uber den sakralen Ursprung des Geldes. (Tubingen : Mohr, 1924)
    • Uber das Wesen des Munzgeldes : Eine sach-und begriffsgeschichtliches Studie. (Halle/Saale : Riechmann, 1929)
    などの著書を含めた、約1800冊余りの貴重な蔵書が収められています。
  • 赤松要文庫
  • 一橋大学名誉教授・赤松要先生のコレクション。 世界経済論などの著書や雑誌文献等。
    積層書庫1層 / 資料一覧
  • 赤松 要 (あかまつ かなめ) 明治29年8月7日-昭和49年12月20日
    元・一橋大学名誉教授 赤松要先生のコレクション。 専門は国際経済。
    • 貿易論 (中央経済社, 1958)
    • 世界経済論 (国元書房, 1965)
    • 新訂経済政策論 (青林書院新社, 1968)
    • 新訂経済通論 (青林書院新社, 1968)
    などの著書や雑誌文献等の貴重な蔵書が収められています。
  • 石田磯次文庫
  • 本学元教授・石田磯次先生のコレクション。 労働経済問題に関する和書約2,500冊、洋書約1,100冊ほか
    積層書庫1層 / 資料一覧
  • 石田 磯次 (いしだ いそじ) 大正5年1月25日-昭和50年1月31日
    「石田文庫」は、労働経済問題に関する和書約2,500冊、洋書1,100冊それに外国語の原資料の3部からなっている。 その特徴は一口に言えば「労使関係制度の国際比較」を蒐集の視点においたものである。 とくに洋書および原資料にあっては、第二次大戦後の欧米先進諸国における経済社会の変動と労使関係制度との対応関係を歴史・理論・政策それに運動の面から一次資料を裏づけに克明に追求したものである。
    対象国は主としてイギリス・アメリカ・西ドイツ・フランス・イタリーそれにスウェーデンであり、その問題領域は、文字どおり客観的にみてJ.T.ダンロップ教授のいう労使関係制度要因に対応して「行為主体」(actors)、「環境条件」(contexts)、「ルール」(rules)それに「イデオロギー」(ideology)の動向を経済・社会・経営・法律・労働運動など学際的視野にたって蒐集したものである。
    もちろん石田氏の問題意識は常に日本の当面する政策課題に焦点をあわせて先進国の動向なり経験を評価し吸収しようとするものであって、単なる蔵書マニアのそれではない。 氏の蒐集した文献資料からの翻訳や紹介は日経連など経営者団体だけでなく、労働省・経済企画庁の経済労働政策の立案者にとっても貴重な情報であったし、時には鋭い批判や警告でもあった。
    石田氏がいかに海外文献に通じていたかは、労働問題の研究者の間にも定評があった。 それは氏の専門書や原資料の蒐集に対する慧眼や蓄積された専門知識ともに、氏の英・独・仏語に関する豊富な語学知識も預っていた。 先進国に駐在するレーバーアタッシェも、日本で発表紹介された石田氏の情報を逆輸入したというエピソードもある。 氏は正に「長脇差」的存在であった。
    このように、石田氏の蔵書は恰好のよい飾りものではなく、日本にとってクルーシャルな問題を解明にするための座右の資料であった。 (略)目録を一覧して感ずることは、直接の海外労働事情に懸わるアップ・タ・デートの資料とともに、それらが由来する歴史的社会的経済的背景に関する古典的文献も同時に蒐集されていたことである。 この意味では、石田文庫は労働問題に焦点を当てた社会経済史料だといってよい。
    本文庫の利用者が研究上直接探し求めている文献とともに思わぬ稀覯本を発見するであろうことを期待している。 (略)(昭 55.1.5 小野恒雄)
    - 「石田(磯次)文庫」目録(昭和55年3月)、本学元・教授 故・小野恒雄先生による編集後記より抜粋 -
  • 下條英男文庫
  • 本学元教授・下條英男先生のコレクション。 生糸(シルク)の経済発展に関する国内外文献を収録。
    3階 下條文庫コーナー / 資料一覧
  • 下條 英男 (しもじょう ひでお)
    昭和4年 東京商科大学本科卒業(現・一橋大学)
    昭栄製糸株式会社取締役(現・昭栄株式会社)を経て昭和45年~55年 城西大学経済学部教授。 専門は世界経済論・国際関係論。
    城西大学という学園をこよなく愛し、そして学問を愛し、書物を愛した今は亡き下條英男教授の遺された蔵書が、経済学部大学院の一角に「下條文庫」として、学園の一隅に光を放つことになった事は意義深い事であると思います。
    その意義の一つは、その蔵書の範囲が経済学のかなり広い分野にわたっている事だと思います。 下條教授のご専攻は、世界経済論・国際関係論でありましたが、その主要研究テーマは、生糸(シルク)の日本経済の発展に対する役割から始めて、生糸の世界経済発展にとっての歴史的な意味を探る事にありました。 ですから下條教授は、それらに関する内外の文献・資料を孜々として蒐集しておられました...(略)
    下條教授の研究テーマは、このように一見狭い分野のようにみえますが、その問題への取り組みは、広い理論的視野からなされていましたので、蒐集文献などは、単に日本経済や世界経済発展史という限局された範囲のものではなく、広く一般経済理論(古典的なものも含めて)に及んでいました。 そのことは更に教授の書物に対する、時に好事家的とさえ思われるほどの執着心の深さと熱っぽさによるものでもあったのでしょう。 その図書愛好心は、経済学部の図書委員を重大使命と心得て終始やり遂げたところにも表れていましたし、又図書委員長になった時など、東大・一橋大学の図書目録を手に入れて、それを学科目別に分けて担当教授に内容検討を依頼した上で、図書整備計画の考案を試みるという熱の入れようであった事にもみられます。
    しかし下條教授の図書整備に対する考え方には、大学の学習に関係するもっと深いところに根拠があったように思われます。 それは大学の学習における図書(従って図書館)の役割という根本理念に根ざしているように思われるのであります。
    つまり大学における学生の学習には二つの柱がある。 その一つで最大なるものは勿論教授の講義・ゼミナールを通じての学習指導であるが、もう一つの柱は、学生が図書館を利用して自学自習する事であるというのです。 学生は社会の諸々の情報の中から自発的に問題を発掘して、その問題を解く為に、図書館において図書を渉猟して、独力でその問題解決を考案し研究しなければならない。 この場合教授はむしろ受身的なアドバイザーとなる。
    この後者の学生の独自的学習は、現在大学において兎もすれば閑却されがちであるが、実はむしろこれこそが大学学習における根本的使命の一つと云ってもよいのではないか....これが下條教授の考え方の根本にあったように思われます。
    ですから大学院の中に独立した研究図書を蔵置して文庫を設け、学生の自発的学習を促進しようとしておられる大学院当局の企図も、根本の狙いは以上の考え方と同根であると推察されるのであります。 「下條文庫」の設置がこうした大学院の根本的使命の一つの解決に少しでも役立つならば、それは独り下條教授の光栄と喜びというに止まらないと思われるのであります。
    - 「下條文庫目録」の中の本学元・名誉教授 望月敬之氏の「序に代えて」より -
  • 野澤孝之助文庫
  • 本学名誉教授・野澤孝之助先生のコレクション。 戦前~戦後の経営数学の代表的和書133冊ほか、外国書273冊。
    積層書庫1層 / 資料一覧
  • 野澤 孝之助 (のざわ こうのすけ) 明治42年-平成19年5月3日
    本文庫は、本学創立の昭和40(1965)年4月から停年により退職する昭和58(1983)年3月まで経済学部で会計学・経営数学を担当し、その間経済学部長・教務部長などを務めた名誉教授野澤孝之助の旧蔵書である。
    旧蔵者は経営財務の数学、会計数理を経営数学の重要分野と位置づけ、その主要問題である金利(利息)計算法に強い関心を抱いていた。 1950年代末東大の佐々木道雄教授や一橋大の久武雅夫教授らに働きかけ日本商業数学会(1978年日本経営数学会と改称)を立ち上げ、自ら学会誌『商業数学会誌』(31号より『経営数学会誌』と学会名変更にともない改題)の編集・発行に携わった。 そのバックナンバー(30号まで)は本文庫に納められている。
    経営数学(商業数学)の「金利計算」に対する関心は40歳代の前半に著わした『利回りを中心とした商業数学』(ダイヤモンド社,1952)以来40年以上に及び80歳を越えて著わした自著の中で、「われ乍ら「金利計算」に興味が未だ続いているのも何かの縁のように思われ、自分では斯学の進歩方向には、誤っていないつもりです。」と記している(『金利計算とその応用―続―』(私家版,1990)。
    本文庫は以上の旧蔵者の関心を反映して経営数学に関する図書から本学図書館所蔵のものを除いた外国書273冊、和書133冊計406冊よりなる「経営数学(商業数学)コレクション」といえよう。 その特色について簡単に述べれば、外国書では、広く英・独・仏・伊のほか中文の図書にも及んでいること、和書では戦前から戦後の経営数学(商業数学)の代表的図書が納められ、わが国の経営数学(商業数学)の歴史を跡付けることが出来ることなどである。 旧蔵者が金利計算の実用性を重視していたことから、金利に関する内外の数表が多数含まれているのも特色のひとつであろう。
    パソコンの発達・普及した今日では不要になったが、自著においては無論のこと数表に朱筆が加えられているのを見ると、旧蔵者のこの学問に傾けた情熱と喜びを感じとることが出来るように思う。
    - 平成20年4月8日 野澤秀樹 -
    野澤孝之助名誉教授からは、EBSCO eBook Collection搭載の和図書電子ブック190点の寄贈も受けました。
  • 蒔田栄一文庫
  • 本学元教授・蒔田栄一先生のコレクション。 英米文学に関する書籍約1,800冊。
    3階 蒔田文庫コーナー / 資料一覧
  • 蒔田 栄一 (まきた えいいち) 明治35年-昭和49年6月25日
    現・東京外国語大学出身、本学元教授 蒔田栄一先生のコレクション。 専門は英文学。
    本学紀要「城西人文研究」の題字は先生の執筆によるものです。
  • 山嵜 一 所蔵の林 芙美子、井伏鱒二の書簡類
  • 本書簡類は平成27年1月20日に、橋本フミ惠教授より寄贈を受けました。
  • 林 芙美子、井伏鱒二の書簡類は、ロンドンの林 芙美子から井伏鱒二に宛てた、林 芙美子の写真に本人のサイン入りの絵葉書や、尾道高等女学校時代の恩師である今井篤三郎へ宛てた長春の絵葉書、また井伏鱒二から今井篤三郎に宛てた封書などである。 井伏鱒二の手紙には、三浦三崎へ旅したときの、村松梢風(作家 村松友視の祖父)や松崎天民らの作家5名の寄せ書きも同封されていた。
    これらの書簡類は、平成26年(2014年)6月に、橋本(旧姓 山嵜)フミ惠(水田記念図書館長(2014 - 2016年度)、城西大学薬学部教授)が、広島県尾道市の実家において亡き父親(山嵜 一、ヤマサキ ハジメ)の遺品を整理中に、見つけたものである。
    今井篤三郎は、尾道高等女学校の国語教師で、林 芙美子の女学校時代の恩師であり、資料によると当時、井伏鱒二とも交流があった。 山嵜 一は、昭和15年(1940年)に尾道高等女学校に数学教師として赴任している。 今井篤三郎が昭和20年(1945年)に退任するまでの5年間は在任期間が重なり、部下として勤務していたと考えられる。 そのため、何らかの理由により、林 芙美子や井伏鱒二の書簡類を譲り受けたものと思われる。
    - 平成28年3月24日 橋本フミ惠 -
    1. 林 芙美子 関連
      1) 封筒のみ(中身なし) 1枚
      林芙美子(東京市内上落合)から今井篤三郎(イマイ トクサブロウ、尾道市久保町)(林芙美子の尾道市立高等女学校(現在県立尾道東高等学校)時代の恩師)へ
      昭和6年(1931年)4月20日付 芙美子 当時28歳
      (参考:前月3月に尾道市で井伏鱒二、林芙美子、深尾須磨子(詩人)の講演会を開催)
      井伏鱒二(現在の広島県福山市生まれ)33歳、
      深尾須磨子 43歳、今井篤三郎 35歳
      2) 絵葉書(パリで撮影した林芙美子の写真に、本人のサイン入り) 1枚
      ロンドンより井伏鱒二(東京市外井萩町)へ
      昭和7年(1932年)1月29日付 芙美子 29歳
      3) 絵葉書(長春地方事務所の写真) 1枚
      東京市内上落合より今井篤三郎へ (スタンプ判読難)
    2. 井伏鱒二 関連
      1) 封筒 1枚 と 手紙(巻紙) 2枚
      井伏鱒二(東京市外井萩町)から今井篤三郎(尾道市久保町)へ
      昭和7年(1932年)2月18日付 鱒二 34歳
      (上記のロンドンの林芙美子からの絵葉書についての記述あり)
      2) 封筒 1枚、手紙(原稿用紙) 2枚、旅館の三崎音頭 1枚
      東京市外井萩町より今井篤三郎へ
      昭和7年(1932年)4月22日付
      (三浦三崎へ旅行して、10人で宿泊の記載。手紙に城ケ島から見た富士山のスケッチあり。三崎小唄の紙に村松梢風(作家)、松崎天民(作家)たちの寄せ書きあり)
      村松梢風(直木賞作家の村松友視の祖父)43歳、松崎天民 54歳 
      3) 封筒 1枚 と 手紙(原稿用紙) 1枚
      東京市外井萩町より今井篤三郎へ
      昭和7年(1932年)5月16日付
    3. 樫の実(今井篤三郎先生追悼集)昭和31年9月刊行 1冊
      昭和31年(1956年)9月刊行 神田三亀男 編集
      今井篤三郎 享年61歳
      追悼集の内容
      1) 掲載写真の中に
      • 林芙美子、壺井栄たちと今井篤三郎の写真(昭和16年)
      林芙美子 38歳、壷井栄 43歳、今井篤三郎 45歳
      • 井伏鱒二たちと今井篤三郎の写真(昭和16年頃)
      2) 遺稿の中に
      「追憶(その頃の芙美子)」 今井篤三郎
      3) 林芙美子女史より今井篤三郎先生あての書簡集
      大正13年(1924年)~昭和7年(1932年) 11通
      (昭和3年(1928年)の手紙に、「黍畑」の詩の掲載あり)
      4) 追悼録の中に
      「あの頃のこと」 井伏鱒二 鱒二 59歳
      (昭和6年3月に尾道市で講演会開催。当初小林秀雄、井伏鱒二、林芙美子の講演会の予定が、急きょ井伏鱒二、林芙美子、深尾須磨子の講演会になったエピソード。今井篤三郎が変名を使って改造社へ何冊も直接注文して、不遇時代の林芙美子を支援したことなどの記載あり)
    4. 新聞・雑誌の記事(切り抜き)
      新聞
      1) 昭和26年(1951年)3月29日 朝日新聞 記事 1枚
      次の連載小説 「めし」 作者のことば
      2) 昭和26年(1951年)6月29日 地方紙 記事 1枚
      林芙美子6月28日死亡、「さびしくなる女流文壇」 平林たい子さん談の記事
      3) 朝日新聞 記事 1枚
      「天声人語」 林芙美子さんがポックリと死んだ。・・・
      4) 昭和40年(1965年)4月15日 中国新聞 記事1枚
      「林芙美子さんの思い出」 平林たい子
      雑誌
      私の読んだ新刊書から
      林芙美子の「放浪記」 松山悦三
    5. 今井篤三郎と山嵜一(橋本フミ惠の父)との関係を示す資料
      1) 今井篤三郎の退任挨拶状(はがき) 1枚
      今井篤三郎(広島県比婆郡東城町)から山嵜一(尾道市)へ
      昭和20年(1945年) 尾道高等女学校を去る。
      2) はがき 1枚
      今井篤三郎(広島県比婆郡東城町)から山嵜一へ
      昭和20年(1945年)~昭和21年(1946年) (スタンプ判読難)
      3) はがき 1枚
      今井篤三郎(岡山県津山市上之町)から山嵜一へ
      昭和27年(1952年)? 9月付
      (林芙美子の思い出を書いておきたいとの記述あり)
      4) 葬儀後挨拶状(はがき) 1枚
      今井修一(今井篤三郎の長男)から山嵜一へ
      昭和31年(1956年)3月22日付 3月19日 篤三郎死去
      5) はがき 1枚
      今井静子(今井篤三郎の妻、津山市上之町)から山嵜一へ
      昭和31年(1932年)9月付